私のブルガリア体験:ブルガリアに行かれた方の体験談や最近のブルガリアの様子などをご紹介します。

■   連載中   中村 靖 氏 : 我が音楽人生 ⑤  (神静民報)

            ⑤   「ギリシャでの出会い

 ピンカス先生という人は穏やかで優しいばかりではなく、第二次世界大戦を潜り抜けた芯の強い女性であった。
その年のギリシャ、アテネで行われる「マリア・カラス国際コンクール」の参加を戸惑っている僕に、「第一次
予選を歌って、落ちて帰ってきなさい!」と言った。
ピンカス先生はユダヤ人。枢軸国だったブルガリアはナチスドイツと同じにユダヤ人迫害をテーゼとしていた。
彼女は二度逮捕され、絞首刑の判決を受けるが二度とも脱走したという経歴の持ち主。そういう彼女の言葉で
一気に肩の荷が軽くなり心落ち着けてコンクールに旅立てた。
久しぶりの西側。三年近くにわたるブルガリアでの生活、決して全てが暗いわけではないが、決して明るくは
ない社会の中での生活から、地中海の底抜けに明るいアテネ。それは色彩や人々の表情、市内どこからでも
見えるパルテノン神殿とリカベトスの丘。その上は開かれた青い空。街路樹のオレンジの実。まして結婚した
ばかりの僕たちには素晴らしい新婚旅行となった。そんな中でのコンクール。一次予選は歌曲二曲、ギリシャの
オペラの曲、オペラアリア一曲の合計四曲。ブルガリア人の学生に随行しているマノヴァ女史に伴奏を弾いて
もらい、無事に一次予選通過。一緒に来ていたメゾソプラノのベネッタも予選通過。二次予選までに数日あり、
その間は観光にいそしんだ。
ギリシャ料理のムサカというのが美味しくて、これは現在我が家でも時々作る。ギリシャのチーズとブルガリアの
代表的なシーレネという白くてしょっぱいチーズは同じもので、最初は塩気が強いので敬遠していたが、これと
冷やしたウォッカが実によく合う。あの頃は僕もよく飲んだ。うまさもわからずにいきがっていた。今は全く
飲まない。むしろ嫌いだ。
さて、いよいよ二次予選。課題はオペラアリア二曲。歌曲ニ曲。他のコンクールと比べると課題曲は多い方だと
思う。無事に歌えた、と思った。自分では。
しかし、残念ながら二次予選は通過しなかった。発表の掲示を見てガッカリしていると、コンクール委員会の
係員から「ミセス・シミオナートがミスター・ナカムラと話がしたい」と言っているのでここで待っていて
ください。と言われ待っていると、彼女が姿を現した。
その瞬間、その場がパーっと明るくなるようなオーラを持って近づいてきた。ドキドキしてきた。ジュリエッタ・
シミオナート。オペラ界の大スター。録音は数知れず、世界の主要歌劇場で活躍していた、世界の至宝と言って
良い大歌手だ。そのシミオナートが僕と話をしたいと近づいてきた。
だが、実際この時は直接言葉を交わすことは出来なかった。それは、彼女はイタリア語しか話さない。僕は
イタリア語がわからない。僕は英語を話すが、彼女は話さない。係員の通訳を介しお互いの言葉を通じさせた。
「あなたはミラノで勉強をしなければならない人です。来月、私が審査委員長をつとめるコンクールがイタリアで
あるので来なさい!」
「マエストラ!このコンクールの後、ブルガリアに戻ると一ヶ月では出国ビザがでないので難しいです」
「そうですか。とにかくミラノに来て勉強しなさい。何かあったらここに電話をしてきなさい」と名刺を
いただいた。この時の出会いがその後の僕の人生を動かすことになるとは、この時点ではまだわからなかった。
しかし、イャー参った。あの伝説の大歌手が直接話をしてくれた。それも僕を高評価してのお誘いだ。この後、
ブルガリアに帰りピンカス先生にことの顛末を全て話した。先生は少し悲しそうに「お前たちは《自由》
なんだから、どこにでも行ける。ミラノに行きたければ行けばいいし、ここにいたければ入れば良い」この時ほど
西と東の壁を感じたことはなかった。僕としてはブルガリアのコンクールを受けることに決めていたし、この時点で
イタリアに行くことは考えてもみなかった事だ。このコンクールのためにブルガリア国内でのコンサートも準備
されていたし、オペラ出演も決まっていた。僕は順調に自分のキャリアを築いていると思い、決められた通りに
目の前の仕事をこなしていた。
ブルガリア国際コンクール。当時のブルガリアのコンクールは3~4年に一度開催される。本当に大きなコンクール。
全世界からエージェントが見に来ていて、気に入った歌手は、コンクールの結果に関わらず、契約を持ちかけられる。
そしていよいよ、このコンクールを受けるための準備は佳境に入り、キャリアのためのオペラ出演となる。この次は
そのオペラ出演、ブルガリア国立プロヴディフ歌劇場出演のことを書きましょうか。

               

ジュリエッタ・シミオナート(1910年 - 2010年)
オペラ歌手(メゾソプラノ)1930年から1966年まで活躍。ドラマティックな役柄とコミカルな役柄のどちらでも
力強い歌唱で賞賛された。


 * ブルガリア国立音楽院を終了され帰国後は藤原歌劇団、日本オペラ協会、新国立劇場を中心に活躍された
中村靖氏のブルガリアでの生活を寄稿された記事が、静岡県西部の地域新聞「神静民報(しんせいみんぽう)」に
掲載中です。


中村靖氏「我が音楽人生」シリーズ (「神静民報」に連載された記事を再録しています。)
①「昭和音楽短期大学からブルガリア国立音楽院へ」
②「ブルガリア国立音楽院に入って」
③「ブルガリアでの生活が始まった」
④ 「ブルガリアという国」
⑤「ギリシャでの出会い」
⑥「いよいよヨーロッパデビュー」
⑦「いざ出陣!」
第8回 は2023年7月15日版に掲載されます。
            
中村靖 (なかむらやすし) 昭和31年、神奈川県生まれ。バリトン歌手。
昭和音楽短期大学声楽科卒業後、ブルガリア国立ソフィア音楽院修了。帰国後は藤原歌劇団、
日本オペラ協会、新国立劇場を中心に活躍。昭和音楽大学講師、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部講師、
日本演奏家連盟会員、日露音楽家協会会員、日本ブリテン協会理事。箱根町在住。
喜仙荘代表取締役