私のブルガリア体験:ブルガリアに行かれた方の体験談や最近のブルガリアの様子などをご紹介します。

■   連載中   中村 靖 氏 : 我が音楽人生 ④  (神静民報)

            ④   「ブルガリアという国

 とにかく順風満帆で僕の留学生活が始まったことは確かだ。それには色々な状況が絡んでいる。
恩師であるピンカス先生は日本人を教えるのは初めて。当時の東側の人間にとって、自分達の生活よりも高い水準の
生活をしている国の人間を教えるということは一種の優越感もあっただろう。イデオロギーでは共産主義が第一位と
思っていても、否、もうこの頃はそう思っている人はあまりいなかったかもしれない。戦後時間が経ち経済的に
もやはり劣勢で社会での活動も制約がある。
要するに色々な「自由」が無いことに国民の不安は潜在的にいつもある状況。なんとなく西側に憧れるというような
羨望感。そんなところにわざわざ西側から自分のところに教えを求めに来る。先生としても力を入れたくなる
ところだ。
それと少し自慢させていただくと「僕の声にはそれだけの魅力」があったということだろう。それにしても
ピンカス先生は全力で教えてくれた。 
門下生の発表会では毎年テーマを決めて行うが、その中でも特に有名な曲を僕に与えたし、地方のコンサートや
学生オペラのキャストでも率先して推していただいた。そんな中でブルガリアの三年目のソフィア国際コンクールに
向けて、僕のキャリア作りの一環として、ブルガリア国内でのコンサート、ギリシャの「マリア・カラス国際
コンクール」、イタリア、アドリアでの国際コンクールへと行かせてくれた。
これは、僕たちが日本人であり西側の国への出入国が自由であるということも手伝って手続上も簡単であったからと
いうこともあった。
ブルガリア人が西側に出ることは相当に大変で、音楽院の学生が西側のコンクールを受けるためには3〜4回の
国内予選を勝ち抜いて、やっと国から派遣されるということになる。
滞在費、航空運賃は全て国が支払う。僕たちは自由に国を出入り出来るが経費は全て自分持ち。どっちがいいん
だろうか。当時は、ただただ国が支払ってくれるのはいいなと思っていたが、それと引き換えとは言わないが自由が
制限されることには思いが至らなかった。
僕の出演のことを順に書いていこう。前回に書いた記念すべきブルガリアでの最初のコンサートはソフィアの
将校クラブでのそれであった。それから何回もコンサートがあり、ついに最初のオペラ出演。これは公式の
プロフィールには書いていないが、学生オペラのモーツァルト作曲「カイロからの鵞鳥」というオペラである。
言葉がわからない中で稽古に行き、みんなが一生懸命に説明をしてくれた。それでも、あまり言葉の解らない
外国人には触りたくないという奴、妙に親しくなりたくて近寄ってくる奴、色々だったが、総じて親切で優しく
根気よく教えてくれた。
このオペラが、何が大変だったかというと、原語のイタリア語ではなく、訳したブルガリア語で歌わなければ
ならなかったところだ。
さらに楽譜はひとつしかないし、コピーは普及していない。これもピンカス先生が、ある筋に頼んでコピーを
してもらった。これは出演者全員分。これで一安心だったが、訳詞のブルガリア語は自分で手書きだ。
筆記体で書かれているキリル文字を自分の楽譜に書き入れる。クセが強い人の手書きのキリル文字はなかなか
読み取るのに苦労した。しかし、このおかげで、キリル文字の読み書きは完璧にマスターした。
ピアニスト・ミンチェヴァ女史のところに毎日練習に行き、音楽稽古を重ねて、十月から立ち稽古が始まった。
指揮者はピンテフ氏、演出はアタナーソヴァ女史、オペラ出演は初めてで勝手が分からず、言葉もわからない僕を、
よく我慢して指導してくれたと思う。本当に感謝している。この時の出演者とは今でもフェイスブックでも
繋がっているし、メールのやり取りも頻繁にしている。
それでも指揮者ピンテフ氏は苛立って「日本人がブルガリア語で歌うのは無理だ」と言って怒る時もあった。
おかしな話だが、僕の演じるドン・ピッポが主役であることがわかったのは、稽古がだいぶ進んでからで、さらに、
衣装合わせの日にわかったのは、序曲が終わったらパジャマで登場し、使用人に脱がされて日常の服に着替える。
着替え終わるまではパンツとランニングであるということ。初出演の舞台がパンツとランニング!ソフィア音楽院
大ホールは満杯の聴衆。でもね‼︎ これがよかった。その後の舞台で恥ずかしいことは何も無くなった。
ありがとう
「カイロの鵞鳥」
ありがとう
ドン・ピッポよ‼︎

 

モーツァルト作曲
「カイロの鵞鳥(がちょう)」

ドン・ピッポ侯爵は妻ドンナ・パンテーアが死んだと思っていて、ラヴィーナに恋している。
ラヴィーナに恋しているカランドリーノは、からくり鵞鳥を作り、その中にビオンデルロを隠し入れて塔へ
運び込むことを考える。
数々のドタバタがあったのち、ドン・ピッポは二人の愛を許す。
しかも死んだと思っていた妻と再婚するという滑稽劇。


 * ブルガリア国立音楽院を終了され帰国後は藤原歌劇団、日本オペラ協会、新国立劇場を中心に活躍された
中村靖氏のブルガリアでの生活を寄稿された記事が、静岡県西部の地域新聞「神静民報(しんせいみんぽう)」に
掲載中です。

中村靖氏「我が音楽人生」シリーズ (「神静民報」に連載された記事を再録しています。)
①「昭和音楽短期大学からブルガリア国立音楽院へ」
②「ブルガリア国立音楽院に入って」
③「ブルガリアでの生活が始まった」
④ 「ブルガリアという国」
⑤「ギリシャでの出会い」
⑥「いよいよヨーロッパデビュー」
⑦「いざ出陣!」
第8回 は2023年7月15日版に掲載されます。
            
中村靖 (なかむらやすし) 昭和31年、神奈川県生まれ。バリトン歌手。
昭和音楽短期大学声楽科卒業後、ブルガリア国立ソフィア音楽院修了。帰国後は藤原歌劇団、
日本オペラ協会、新国立劇場を中心に活躍。昭和音楽大学講師、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部講師、
日本演奏家連盟会員、日露音楽家協会会員、日本ブリテン協会理事。箱根町在住。
喜仙荘代表取締役